隷の星

SF作品の二次小説のブログです。

PART2 4

「起きて、イプシロン。起きるのよ。さあ、起きて。」

「―――・・・・・。」

先程ペールゼンと言葉を交わしたファンタム・レディ、またはプロト・ワンと呼ばれる美女が、――先ほどは少女と表現したが、それは齢七十以上にもなろうというペールゼンにとっては、三十歳の軍幹部であろうと青二才の若造ということになるからだが、―――このどこから見ても申し分のないブルーネットのボブヘアーの美女が、清楚な白い衣装に身を包み、傍らの草むらに眠っている全裸の若者に対して優しくささやき続けていた。辺りは原生林と見紛うばかりのうっそうと茂った南洋樹の森が、静まり返って二人を取り囲んでいる。若者がまぶしい光に目を細めるようにして、ゆっくりと目を開けてこちらを見詰めた時、ファンタム・レディは思念をある瞬間に飛ばしていた。彼女はその者の存在以外にはこの世界では孤独であり、新たな同胞の誕生を心から喜んでいた。あの人――キリコは、違う。この今目の前で目覚めた同胞とは、自分にとって違う存在だ。

あれは私の「本当の名前」だった。彼女は自分を抱きしめるようにそう思う、フィアナという彼が名づけてくれた名前は。自分の名前が通常人と違って、単なる科学記号と変わらないことを、彼女は短い学習期間の間に学んだ。そして、自分にはもともとはもっと違う人間らしい名前があったようにおぼろげに思う。しかしそれは決して、「思い出せない。」ボローらは自分は「白紙のPS、つまりは素体」という言い方を彼女を無視しながら目の前で言っていたことがあった。それから類推するに、自分はおそらく記憶を消されて今ここにいる。おそらくそうだ。PSは試験管から生まれた人工生命体ではないのだと思うと、やや安堵するフィアナであったが、この目の前の若者もそうだと思うと、悲しみが胸に満ちてくるのだった。どこから来たのかわからない彼もまた、過去をまったく持たない人間だ。私は彼と、自分にはあの神にも近いキリコに願って、私達の記憶を「取り戻したい。」そして、人間に戻りたい――彼女はそれを、あのリドの漆黒の闇の中で、宇宙線に揺らいだ映像のキリコを思い返すたびに、考える。キリコならきっとわかってくれる。私の名前を「くれた」のだから――私を人間に戻す呼び名をつけてくれたのだから――彼女は今そう考える。だから、その人間に覚醒できる気の毒な身の上の「仲間」は、できれば一人でも多いほうがいい。だから彼女は、イプシロンを起こすのをためらわなかった。それが彼女に将来どのような者として、キリコと彼女に立ちはだかることになるかは、フィアナにはその時予測はできなかった。

また、PSの刷り込みについては、彼女はさほど重要だと思わなかった。自分はウドの街でキリコとATで対峙できた時もある。それはまったくの仕掛けられた取組みだったが、それでも自分はキリコに対して攻撃はある程度できたのだ。つまりそれは、普通の人間と変わらないのではないか。そう彼女は結論していた。今人間に対する攻撃欲が失せているとボローらに言われているのは、彼女自身の起こしている秘密結社への無言の「反抗」である。これは第一段階で、次はこのイプシロンとこの施設を抜け出し、キリコと再会するのが第二段階だ。自分はもうウドの街でそうであったような、「お飾りの貴族の女」を演じるような女ではない。フィアナはそう思っていた。しかしそれらの秘密の計画はまったくペールゼンらには気取られることなく、彼女は今原生林の間にいる。ここはイプシロンを、秘密結社がこれからATで出撃訓練をさせるつもりの、内乱のクメン王国の環境に似せて作られていた。PSの機能を準備万全にするためです、と双子の科学者は言ったものである。生まれた環境と同じ環境だと、PSの運動性能も格段にあがるでしょう、と。なんて愚かしいことか、フィアナはそのために莫大な軍事予算がかけられていることを、すでによく知っていた。こんなことは今すぐにやめさせないといけない、大丈夫、できるわ。フィアナはイプシロンの名前を呼びかけた――やはり記号と変わらぬその呼び名を。

「あなたの名は、イプシロン・・・・・。」

「イプ・・・シロン・・・・。」

「そうよ。あなたはたった今生まれたの。そして私の名はフィ・・・・。」

言いかけて、フィアナははっとして言い直した。これは今言ってはならない名前だ。

「プロト・ワン・・・。」

彼女の言うとおりに口の中で繰り返す若者に、フィアナは『世界』を見せてあげるわ、と付け加えた。それは彼女自身の秘密の計画を示唆するものであったが、今のイプシロンにわかるわけはなかった。ふたりは立ち上がり、森の中を歩き始めた。

イプシロンは、彼女が思っていた以上にナイーブな心の持ち主らしかった。茂みを歩き回る彼ら二人の足音に驚いて、足元から鳥が飛びだしてきた時、イプシロンは驚愕の表情で後ずさった。フィアナは彼に、彼ら生き物は彼に対して敵意がはじめからあるわけではないことを教えねばならなかった。

イプシロン、何でもないの。あれは鳥よ。」

「と・り・・・。」

イプシロンはかすかに微笑みかけてきた。フィアナはそれを見て、彼も彼女と同じように感情があり、情緒がある人間だとわかって安心感を深めはじめた。だから、その次にイプシロンがとった行動には、彼女は恐れおののくしかなかった。

「アッ。」

木の幹で休んでその甘い蜜を吸っていた一匹のカミキリムシに、イプシロンがおぼつかない手つきで触れた時にそれは起こった。虫は、イプシロンの指先を鋭い勢いで刺したのである。それは甘美な欲望を邪魔する者への、彼ら一流の報復手段であった。

「テェッ!」

イプシロンは虫を思いっきり地面にたたきつけた。そしてその上から何度も拳を振り下ろした。固い外殻に反して柔らかな体液が詰まっているその体は、上からの圧力にいとも簡単にへしゃげた。イプシロンはしかし、そんなことにはおかまいなしに、虫らしささえも留めたくないというばかりに何度も何度も叩き続けた。フィアナは知らないうちに大声で叫んでいる自分に気付いた。

「やめなさいっ、やめて、イプシロン!」

イプシロンは急に手の動きのスピードを緩めた。心の内でブレーキがかかっているのだが、手が止まらず怯えているような表情が彼の顔には現れた。途方に暮れたようにフィアナを見上げる彼に、フィアナは必至で言うべき言葉を探した。

「・・・・ああ、どう言えばいいの、わかるでしょう、虫は・・・!あなたが嫌いだから噛んだんじゃないの。虫は・・・もう死んでしまった。ご覧なさい、虫はもう飛べない・・・・・もう二度と・・・・・。」

フィアナは途中から涙ぐんでいた。このイプシロンはなりは大人だが、感情は子供のようだ。それもまるで赤ん坊のようだ。自分もそうだったのではと思うフィアナだったが、自分の場合はもう少し覚醒後は精神が落ち着いて分別もあったように思う。その差異が、彼女を混乱させていた。

フィアナが涙を浮かべているのを見ると、イプシロンにも変化が出てきた。彼の瞳にも涙がふくらんできたのである。彼はゆっくりとフィアナの言葉を繰り返した。

「死ん、だ・・・・・。」

モニターの向こうでこれらのやり取りを観察していたボローや双子の科学者たちは、PS実験に初歩的な支障が出たことを悟った。また、フィアナがますますPSとして危険分子だということを確認した。PSがこのようなことぐらいで涙を見せるなど、あってはならないことである。双子たちはひそひそと顔を寄せ合ってささやいた。

「これはだめみたいね。彼の脳を白紙状態に戻して、情報伝達素子の入力からまたはじめたほうがいいかも。」

「仕方ない、イプシロンはまだ完全体ではないからね。ただこんな状態の彼に、余計な示唆は困るのよね。介添え員はあのプロト・ワンでは、やはり無理のだったかしら。」

「同じPS同士ということで、刷り込みはうまくいったと思うけど。」

「そうね。それはすごくいいと思う。」

イプシロンがプロト・ワン同様、使い物にならない事態だけは避けたいボローは、憤然として背後にいる組織構成員たちに振り向いて声高に叫んだ。

「何をしている。早くプロト・ワンをここに呼べ!」

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